2006年07月06日

休載のお知らせ

 『ジャズ構造改革』(彩流社、村井康司他、2006)、『新版 ジャズ』(誠文堂新光社、ベーレント、油井正一訳、1973)、『インプロヴィゼーション』(工作舎、ベイリー、竹田賢一他訳、1981)を続いて読んでいくつもりですが、しばらく事情で休みます。
 これまでのアクセスに感謝します。
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2006年07月05日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(42)

 昨日の続き。
 「後藤 まあ、そうでしょうね。たとえば、ジョン・ゾーンのネイキッド・シティのライヴを見て感じたことなんだけど、あれは即興的な部分が少ないわけですよ。四十秒で終わってしまった曲もあったけど、あれは「せーの」で合わせているから、即興でやってるわけじゃないでしょ。しかし、あそこにはある種の「生々しさ」があるよね。
加藤 ええ。力と言ってもいいでしょうね。「その場で起こってしまったことをすべて肯定する」いい加減さ、とでも言うか。
後藤 あの人のアルバムになったものって、ちょっと白々しい感じがするし、となるとこれ以上説明するには実際に見てもらうしかないわけですけどね。ネイキッド・シティを事前に曲書いて練習したから「即興」のあるジャズより程度が低いと言うのは、だからじつにナンセンスなんだよね」
 小見出し一つ飛んで、「つまらないジャズ喫茶を生ませたのは誰か」の最後のあたりに以下の一節がある。これでこの本からの引用の最後とする。
 「加藤 [承前]彼ら[ウィントンとデヴィッド・マシュー]の演奏に「主体」ないし観念も即興性の神話もない。だけど演奏の中には、それを理解するにはジャズ喫茶に何年も通わなけりゃ体得できないジャズの語法が百花繚乱的に散りばめられている」
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2006年07月04日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(41)

 昨日の続き。
 「加藤 [承前]ただ何コーラスか間(ま)を埋めているだけで(爆笑)。あれは今で言えば、テクノ・ミュージックみたいなものだったような気がするんですね。そういった文脈において、今さら、即興でも主体でもないし、かといってフュージョン的な自己調和的音楽でもない、という状況におかれた創造的ジャズ・ミュージシャンたちは、いったいこれから何をすればいいのか、非常に深刻な問題だと思いますよ。
後藤 現在のジャズ・ミュージシャンが探求すべきことは、今までとは違った、新しい「生々しさ」「リアリティ」の発見であってほしい、と僕は思うんですがね。それがどういうものかは分かりませんが。もちろん今さらそれを「主体性」や「即興性」に求めてもしようがないものだとは思いますけど。
加藤 今までとは違った意味で、やっぱりジャズはライヴだってことになる」
 明日に続く。
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2006年07月03日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(40)

 昨日の続き。
 「加藤 [承前]じゃあ、そうなってしまうと、ジャズがすべての音楽の中で「わたくしジャズが優位的に持っているのはこれでございます」と提示できるものは、何かあるんだろうか(笑)、と考えちゃうんですね。だがら結果論的極論を言っちゃえば、アドリブを延々とやり続けることによってジャズ的な態度を成立させたビ・バップを通過して、「主体的な即興による現場的創造」っていうジャズ神話ができたんだけど、こういった紆余曲折を経た結果、結局こうなっちゃったんですね。まあ、そういったことをいろいろと考えさせてくれたというだけで、ジャズの存在意義はあった、ということはあるかもしれないけれど。じゃあ、そういう「即興性」もない「主体性」もないというところで、ジャズの力を提示しえていたのは、意外にもグレン・ミラーぼようなスウィング・ジャズが最初で最後だったんじゃないか、という気もしますね(笑)。スウィング・ジャズって、「主体性」なんてもちろん最初からないし、即興だって誰がソロとったのか誰も憶えてないほど、どうでもいいものですよね」
 せりふの途中だが、明日に続く。
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2006年07月02日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(39)

 昨日の続き。
 「佐藤 それは即興という手段をとったにもかかわらず、説得力のない、充分ダマシテくれない、つまりロクでもない迫真性しか生み出しえていないってことでしょうね」
 で、続く「言語的感動は真か偽か」の冒頭あたりに、以下のような部分がある。
 「加藤 [中略]結局は程度の問題であって、「迫真性」でも「黒さ」でも「即興性」でも、それぞれそれなりの「謎性」とコントロール可能な部分があって、どれも音楽の魅力に同じ水準で寄与しているように思います」
 さて、かなり先の「ジャズの未来にやどるもの」の中ほどには、以下のような部分がある。
 「加藤 [中略]ウォレス・ルーニーとかマーク・ホィットフィールドとかが、なぜあんなふうに「主体」を感じさせない演奏をあえてするのかに興味があります。おもしろいのは、ああやって「主体」のないジャズをどんどん生産し流通させることが、ジャズに対する「批評」になっちゃってることですね。つまり、ジャズには「主体」も「即興」もいりません、と」
 明日に続く。
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2006年07月01日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(38)

 昨日の続き。
「後藤 [承前]僕は、ジャズ的「生々しさ」を追求する過程において即興が最重要視された、と理解しているんですよ。だから、加藤さんの問い掛けに答えるとすれば、ある演奏が即興であるか即興でないかは、どちらでもいい問題じゃないかということです。要は演奏の「生々しさ」が問題なのです。
加藤 それはうれしい答えですね。音楽が「つくられた過程」という神話にすがってその力を発揮しようとしているうちは、つくり手も聴き手も、音楽そのものにたどり着くことはできないと思います。[中略]
後藤 「意図された即興性」というものは見破れると思うんだよね。意識のうえでメタレベルに立っている、つまり「即興をやっているんだ」という即興のつまらなさは聴く人間に分かっちゃうと思うんですよ。[中略]つまり見ていて「あっ、お芝居してるな」って意識させてしまうようなシラケた迫真性は迫真性じゃないとも言えるわけですよ。たとえば、マンハッタン・ジャズ・クインテットの即興性が贋物だ、というのは、そういうことですよね」
 明日に続く。
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2006年06月30日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(37)

 昨日の続き。
 「後藤 うーん、いきなり根源的問い掛けがきちゃいましたね。まあ、僕が『ジャズ・オブ・ジャイアンツ』の中で「ジャズは即興だ」と言っているのは、かなりの戦略的目論見があっての発言なんです。この本のウィントン・マルサリスの章を読んでいただければ分かると思うんだけど、極端なことを言ってしまえば、聴き手に感動を与えればそれが即興であろうがなかろうが本当は関係ないと思うんですよ、僕は。だから即興は究極の目的ではなくて、ジャズにとって最も大切な要素は何かと言うと、むしろ「演奏性」というか、聴き手に与える「インパクト」「生々しさ」「迫真性」みたいなものだと思うんです。それが即興というシステムをとることによって、ジャズにおいては、有効に発揮されるということです。特にビ・バップのころはまさしく即興=「生々しさ」だったと思うんです。今のジャズは必ずしもそうじゃありませんけどね」
 明日に続く。
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2006年06月29日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(36)

 加藤総夫「ジャズの未来に宿るもの」に進む。
 「リアルな即興とは」の冒頭部のやや先のところから。
 「加藤 [前略]その[『ジャズ・オブ・ジャイアンツ』]なかで、後藤さんが繰り返し述べている主題があります。たとえば「ジャズの本質は即興である」というテーマ。[中略]おそらくはどんな音楽書でもジャズの定義というと必ず出てくる「ジャズの即興性」ということから始めてみたいと思います。というのも、僕がそう感じているだけなのかもしれませんが、たとえばスーパーサックスという、パーカーのソロを譜面にして、それをなんの即興もなく、もうただ吹くだけというグループがあります。確かに、アーティキュレイションなど、パーカーの演奏に全くおよばないはずなのに、その演奏を聴いているときに憶える興奮とか迫力、あるいはメロディーだな、グッとくるな、っていう感じは、よく考えてみると、パーカーのソロを聴いているときと、そんなに変わらないな、って感じがするんです。なんの「即興性」も「現場性」もないはずなのに、でも出てきた音は似ているし、その音がひきおこす聴き手の中での「出来事」は、オリジナルを聴いているときとそんなに変わんないんじゃないか、だとすると、「即興性」が持つジャズにおける積極的な意義というのは、いったいどういうことなんでしょうか」
 明日に続く。
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2006年06月28日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(35)

 昨日の続き。
 「佐藤 [承前]「一回」だからこそ全部見せちゃうということができたインプロヴィゼイションというのは、たとえコードから外れていてもリズムを踏み外しても「いい」ものだ、ということですよ。
後藤 コードとかリズムというのはひとつの取決めなんですから、そこでそのインプロヴィゼーションだけのための「取決め」をつくっちゃったっていいわけですよね。リズムにせよコードにせよ、あらかじめ理念があって導きだされたものじゃなくって、演奏者も含めた聴き手の快感の原則の積み重ねからできてきた、非常に自然発生的なものですから。
佐藤 あと、周波数の足し算、引き算みたいなものでできてくる、地球の重力みたいなものだから、どうにでもなるものなんですよ。
後藤 「正しい」リズムやコードが客観的な実在物として存在する、みたいな考えは間違いですよね。新しいものが出てくると、それまでの規則から見て逸脱しているからよくない、というようなことを言う人はバカみたいだな、と。だから今ある規範みたいなものからズレていても、それが聴き手――そこには演奏者も含まれます――が今まで知らなかった気持よさを発見する可能性は無限にあるんじゃないか、と聴き手として僕は楽天的に考えているんです」
 佐藤允彦との対談は以上。
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2006年06月27日

後藤雅洋『ジャズ解体新書』(34)

 昨日の続き。やや先から。
 「後藤 [承前]僕も[ポップスやフュージョンが]どんな音や技術を使っているのか分からないくせにネタが見えるような気がして飽きちゃうんですよ。その点ジャズは、ネタが見えない、まあネタが見えるジャズもありますが(笑)。
佐藤 だから、インプロヴィゼイションは、必ずしも一回性ということが特権を持っているとは限らないですね。
後藤 その一回性ということをすごく狭く捉えているんじゃないかな、世間では。でも、ある出来事が生まれた瞬間の感激がレコードに定着されていたら、何回聴いてもそれは「一回」の出来事なんだ、と僕は思います。
佐藤 ある辞典での自分の全人格をさらけ出して見せちゃう、ということが、見ている人の感動を呼ぶと思うんですね。[中略]だから、どれだけ商業的な思惑を排して、真剣にその時間を処理したか、ということがいちばんよく見えるのがインプロヴィゼーションなんじゃないでしょうか」
 せりふの途中だが、続きは明日。
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